成長と気候リスクの狭間に立つベトナム
ベトナムは近年、高成長を続ける一方で、気候変動がもたらすリスクの深刻化という難題にも直面している。農業生産の不安定化をはじめ、都市インフラへの浸水リスク、製造業拠点を脅かす電力不足、さらには国際的な炭素規制が輸出競争力に直撃するという多層的な問題が、同時に進行している状況だ。
世界銀行は2022年7月に公表した「ベトナム国別気候・開発報告書(CCDR)」において、「適切な適応・緩和策を講じなければ、気候変動のコストは2050年までにGDPの12〜14.5%相当に達する」と警告している。

台風ヤギは、2024年9月7日の午前中にベトナム北部の街ハイフォン市に上陸。 米軍合同台風警報センターの階級では最強レベルの「スーパー台風」と評価され、上陸後はハイフォン市やハイズオン市、ハノイ市を中心に大きな被害を与えた。
さらに、2025年6月に公表された更新版報告書『Viet Nam 2045 — Growing Greener』では、労働生産性の低下・インフラへの資本損失・農業への打撃という3つの主要チャネルを通じた気候変動の影響が、2050年までの実質GDP成長率を平均0.33%ポイント押し下げると試算されている。
また、RCP4.5シナリオ(中程度の排出継続シナリオ)では2050年時点のGDPがベースライン比で12.5%減少するとの推計も示されている。

なぜベトナムは気候変動に弱いのか——地理が生み出すリスクの構造
台風・塩害・地盤沈下——地形が生み出すベトナム気候リスク
ベトナムは南北3,260kmに及ぶ細長い国土に、デルタ地帯・山岳地帯・熱帯モンスーン地域が混在する複雑な地形を抱え、モンスーンの影響を強く受けやすい気象条件下にある。
とりわけ9〜11月に集中する台風の襲来はベトナム全土で深刻な洪水をもたらし、ベトナムの経済発展を長年にわたり阻害してきた。
ベトナム政府はこれまで治水に重点をおいた災害対策に取り組んできたが、近年の気候変動に伴う海面上昇や頻発する集中豪雨は、洪水災害に加え、激しい河岸・海岸侵食、干ばつ・塩水侵入、土砂災害をも引き起こしている。
その被害の様相は地域によって大きく異なる。台風・洪水・土砂崩れは北部・中部を、塩水浸入と海面上昇は南部メコンデルタを、都市型洪水と地盤沈下はホーチミン市をそれぞれ異なる形で脅かしている。
一国の中でまったく性質の異なる気候リスクが同時に顕在化している点が、ベトナムの際立った特異性だ。

気候変動が直撃するベトナム農業——食料安全保障の危機
メコンデルタの塩害
ベトナムGDPの約11〜12%を占める農業は、気候変動の打撃を最も直接的に受けるセクターの1つだ。特にメコンデルタを襲う塩害と、2026年に形成が予測されるエルニーニョが重なれば、食糧安全保障の基盤に大きな悪影響を与えかねない。
国内米生産の50%以上を担うメコンデルタでは、乾季になると塩水浸入が深刻なリスクとなる。2020年の危機では塩水が100km以上内陸まで遡上し、最大16万5,000世帯が淡水不足に陥った。
East Asia Forum(2025年11月22日)によれば、メコンデルタは約2,000万人の生活を支え、農業輸出を通じて国家GDPの約12%に貢献する重要地帯だ。
2026年については、ベトナム農業環境省が6〜8月にエルニーニョが形成される確率を80〜90%と予測しており、これに伴う降雨量の減少が塩害をさらに悪化させる恐れがある。同省は中部・中部高原・メコンデルタで15〜40%の河川流量不足が生じる可能性を警告している。

■ 胡椒・コーヒー・水産業にも広がる気候変動の打撃
こうしたリスクは米だけにとどまらない。胡椒の生産量は2022年をピークに減少傾向が続いており、VPSA(ベトナムスパイス協会)は2025年も前年比減となり、2022年から4年連続の減少になると予測している。高温多湿の環境で蔓延するカビ(フィトフトラ・カプシシ)は場合によっては壊滅的な被害をもたらし、生産縮小の主要因の一つとなっている。
ベトナムの主要輸出作物であるマンゴー・ドリアン・カシューナッツといった高付加価値品も、異常な降雨パターンや季節外れの大雨が開花・収穫期に重なる影響で収量が大幅に落ち込んでいる。農業環境省も、こうした気候変動による不規則な天候が高付加価値作物への打撃を今後も継続させると警告している。
農業と並んでベトナムの重要産業である水産業も、気候変動の影響から逃れられない。海面水温の上昇と沿岸水質の変化によるエビ・魚類の養殖ロスが増加しており、中国・ノルウェーに次ぐ世界第3位の水産物輸出国として2024年に100億ドルを超える輸出実績を誇るベトナムにとって、産業競争力の維持が重要な課題となっている。
塩害による農地転換も加わり、農村経済が多面的な脆弱性を帯びつつある。
ベトナム国内でもマンゴーの栽培に適する地域が変化している。従来、トウモロコシや豆類などの短期作物が主流だったダクノン省でも、マンゴー栽培を始める農家が増え、新たな収入源にもなっている。

3. 気候変動が露わにするベトナム都市の脆弱性
「経済都市」が水没の危機——ホーチミン市の地盤沈下
気候変動の影響は農業のみならず、都市部にも及ぶ。ベトナム最大の経済都市であるホーチミン市は、洪水・地盤沈下というリスクを抱えている。市面積の40〜45%が海抜1m以下であるうえ、JICAの調査によれば1990年以降、年間2〜5cmのペースで地盤沈下が続いているという。
NTUシンガポール率いる国際研究チームが2014〜2020年の衛星データを分析した結果(2022年発表)、ホーチミン市の地盤沈下速度は年間16.2mmと計測されており、世界の沿岸都市のなかでも最速クラスにある。
地下水の過剰汲み上げが主因とされており、汲み上げ量は2016年のピーク時に約72万m³/日に達していた。その後、規制強化により2022年には約14万5,000m³/日まで削減されたものの、すでに生じた地盤沈下の影響は残存している。

全国900都市に広がる洪水リスクと政策対応
建設省が2025年11月に政府に提出した報告によれば、都市型洪水の深刻化は全国約900の都市地域に及んでいる。現在の都市化率は44.3%で、2030年には50%超まで進むと予測される。
急速なコンクリート化による緑地・水面の喪失と排水インフラの老朽化が洪水被害を深刻化させており、2024年だけで全国397か所・924haの浸水被害が記録された。主要都市では浸水水深が0.3〜0.8m、排水に3〜6時間以上を要する事態が常態化している。
2025年は5月から10月にかけて11件の台風・熱帯低気圧がベトナムに影響を与え(年平均は11〜13件)、記録的な大雨が各地のインフラに深刻な打撃をもたらした。

気候変動が広げるデング熱—公衆衛生リスク
気候変動の影響は感染症リスクにも波及している。ベトナム保健省によれば、2025年のデング熱感染者は18万1,000例超・死亡36人に達し、流行が2026年以降も続く可能性があると警告している。ホーチミン市だけでも2025年7月24日時点で1万5,546例(前年同期比158%増)を記録しており、急増が続いている。
保健省によれば、感染は従来の南部集中から変化しており、近年は北部・中部・中央高原でも感染者数の増加が確認されている。気温上昇と降雨パターンの変化が媒介蚊の生息域を拡大させており、かつてはまれだった地域でも流行が確認されるようになっている。
中長期リスクも深刻だ。PMC掲載の学術論文(2023年)が引用する世界銀行・ADBの試算によれば、対策を講じなければ2070〜2100年には600万〜1,200万人が沿岸洪水の影響を受けると推計されている。また2050年までに、気候変動に起因する医療費は10〜30億ドル、早期死亡による損失は30〜200億ドル、労働損失は60〜230億ドルに達するとも試算されている。

ベトナム製造業を取り巻く気候連鎖リスクー干ばつ・猛暑・炭素規制
干ばつ・猛暑が引き起こした電力危機
製造業はGDPの約24%を担うベトナム最大の産業セクターだが、気候変動による電力不安定と脱炭素規制の圧力が、「世界の工場」としての競争力に影響を与え始めている。
その象徴が2023年6月の電力危機だ。記録的な猛暑と干ばつが重なり、産業貿易省は6月8日、ベトナム最大のソンラ水力発電所を含む11か所の水力発電所が水位低下により運転停止したと発表した。相次ぐ計画停電はサムスン・フォックスコンなど北部に集積する大手製造拠点を直撃し、世界銀行はこの電力危機による経済損失を約14億ドル(GDP比0.3%)と推計している。
2026年は再びエルニーニョによる降水量の減少が見込まれており、水力発電容量の低下から電力不足へと連鎖するリスクへの備えが一層求められている。

対EU輸出30億ドルに炭素価格——CBAM
2026年1月、EUの炭素国境調整メカニズム(CBAM)が正式施行された。鉄鋼・セメント・アルミ・肥料・電力・水素の6品目の輸出にEU-ETSと連動した炭素価格が課される仕組みで、ベトナムへの影響は小さくない。ベトナムは2023年時点でCBAM対象品目の対EU輸出額が約30億ドルに上り、アジアでインドに次ぐ規模となっている。
ベトナムの輸出額の70%以上はFDI系製造業が生み出しており、輸出競争力が欧米の炭素規制コストに直接さらされる構造となっている。East Asia Forum(2026年3月)は「ベトナムが国内で炭素価格を設定すれば、その分をCBAMの賦課金から控除できる。設定しなければ全額がEUへの支払いとなる」と明確に指摘している。
こうした外圧が国内政策を後押しする形で、ベトナムは2025年6月、電力・セメント・鉄鋼の3セクターを対象にパイロットETS(排出量取引制度)を開始した。この3セクターは国内CO₂排出量の約半分を占める。強度ベースのベンチマーク方式を採用しており、パイロット期間は2028年末まで続く見通しで、本格的なオークション方式への移行は2029年以降とされている。
制度設計や計測・報告・検証(MRV)体制の整備が急務となっており、国際的な炭素市場との連携も視野に入れた制度強化が進んでいる。
JICAのODAが後押しするベトナムのGX戦略・気候変動対策
農業・都市・エネルギー・製造業・公衆衛生と多面的に深刻化する気候変動リスクに対し、ベトナム政府は対策を加速させており、国際社会もこれを後押ししている。

JICAは2026年3月、「グリーン成長及び気候に対する強靭性のためのGXプログラムローン」として上限500億円の円借款貸付契約をベトナム財政省と締結した。GX推進のための財政・投資インセンティブ制度の整備、NDC(国が決定する貢献)実施に向けた政策策定、気候変動適応策の推進という3本柱を軸に、エネルギーの安定供給・経済成長・排出削減の同時実現を目指す取り組みを財政面から支援するものだ。
ベトナムに進出する日系企業は2,000社を超えており、本事業はGXや防災分野での日越企業の協働も視野に入れている。気候変動は「環境問題」にとどまらず、輸出競争力・投資環境・食料安全保障を左右する「経済安全保障の問題」として認識されるなか、制度整備と国際協力の両輪によるベトナムの対応力強化が、今後の成長持続性を左右する鍵となる。
