ベトナム和食市場の構造変化——「日常食」から「体験消費」へ
ベトナムで「食体験」が本格化——高級和食が新たな消費トレンドへ
ベトナムの一人当たりGDPが5,000ドルを超えた今、都市部の食シーンに静かな、しかし確実な変化が起きている。ハノイやホーチミン市に、カウンター席わずか十数席の日本料理店が次々と誕生し、本格的な高級和食を楽しめる時代が到来した。その中心にあるのが「おまかせ」という食の様式だ。この言葉はベトナム語でもそのまま通じるほど、すでに広く認知されている。
背景にあるのは、消費構造そのものの転換だ。都市部を中心に中間層・富裕層の人口が急速に拡大するベトナムでは、「何を食べるか」よりも「どう食べるか」を重視する体験消費へのシフトが顕著になっている。モノの豊かさがある程度満たされた段階で、人々の関心は次の豊かさ——「記憶に残る体験」へと向かいつつある。
こうしたベトナムでの高級和食ブームは、四つの力が重なり合って生まれている。①日本食への人気の高まり、②中間層の拡大と「体験消費」への移行、③ミシュランガイドのベトナム進出による高級食市場の権威化、④「食体験=エンターテインメント」型の新業態の台頭——これら四つが同時に作用することで、市場は急速に厚みを増している。

ベトナムの日本食レストランは10年で5倍
ベトナムにおける和食ブームにおけるそもそもの土台として、ベトナムにおける日本食への関心の高まりがある。
日本食レストランの数は2014年の510店から2023年には2,570店へと約5倍に拡大した。インドネシア(4,000店)やフィリピン(760店)と比較しても、その成長の勢いは際立っている。
ベトナム人(18〜39歳)が好む日本食を見ると、寿司・刺身が59%でトップとなり、たこ焼き(49%)、ラーメン(42%)、うどん・そば(41%)が続く。寿司は高級店から回転寿司まで幅広い層に定着し、ラーメンは若年層の日常食として急速に普及。Z世代を中心に、日本食は食のカテゴリーを超えたライフスタイルとして浸透している。
また、2025年から2026年にかけては、サイゼリヤ・元気寿司・とんかつ和幸・鳥貴族など、日系飲食チェーンのベトナム進出が加速している。丸亀製麺やすき家がすでに20店舗前後まで拡大していることからも、日系チェーンはかつての「駐在員向け」という位置づけを脱し、現地ベトナム人を主要顧客とした日常の外食先として市場に定着しつつある。

ミシュランがベトナムの和食に「お墨付き」を与えた
こうした流れに権威を与えたのが、2023年にベトナムへ上陸したミシュランガイドだ。2025年版では累計181店が掲載され(前年比10%増)、日本式テッパンヤキのおまかせ店「Hibana by Koki」(ハノイ)はベトナムで初めてミシュランの星を獲得した非ベトナム料理店(日本料理店)の1つとして知られるなど、和食はベトナムの高級食市場において確固たる地位を築きつつある。
ミシュランという国際的な評価軸の導入は、ベトナムの消費者に「本物の食体験」を見極める新たな基準をもたらした。

「おまかせ」が象徴する新業態——価格帯を超えた和食体験の広がり
市場をさらに広げているのが、富裕層だけでなく感度の高い若手ビジネス層や上位中産層をも取り込む、新しい業態の台頭だ。2025年10月12日にホーチミン市タオディエン地区にオープンした「SHARI SAIGON MODERN JAPANESE CUISINE」は、その象徴的な存在である。
日本伝統の「組子細工」とやわらかな間接照明が織りなす陰影の美しさ、2階に設けられた江戸前寿司を目の前で楽しめるコの字型カウンター——まさに「日本の食文化」をそのまま輸出したようなコンセプトで、寿司、黒毛和牛の鉄板焼き、天ぷらを中心とした創作和食をランチからディナーまで提供している。

格式の高さを保ちながらも、空間に余白と開放感を持たせる——この設計が、従来の高級和食が持っていた「敷居」を意識させることなく、幅広い客層を自然に引き寄せている。
では、こうした「体験としての和食」を体現するSHARI SAIGON MODERN JAPANESE CUISINE(以下、「シャリサイゴン」と呼称)は、どのような戦略のもとで運営されているのか。また、数あるアジアの都市の中でなぜホーチミン市への出店を選んだのか。同店を運営する株式会社オンザページのベトナム代表・鈴木一生氏に話を伺った。

—数ある東南アジアの市場の中で、なぜベトナム、そしてホーチミン市への出店を選ばれたのでしょうか。その背景にある経緯をお聞かせください。
(鈴木氏)コロナ前、料理のコンサルタントとしてベトナム人オーナーのレストランに関わっていたのが出発点です。日本や中国と比べて動きやすい環境だと感じていたし、ちょうど地下鉄の建設が進んでいた時期でもあって、「これからどんどん開発されていく街だな」という手応えがありました。そのオーナーとの会話の中で「いずれ自分でも出したい」という気持ちが芽生えて、それが今に繋がっています。
—実際にご来店されるお客様の層について教えていただけますか。ローカルのベトナム人のお客様が中心なのでしょうか。
(鈴木氏)実質7割ほどがベトナム人のお客様です。残りが韓国人や中国系の方で、日本人は少しという構成ですね。来てくださる方はいわゆる富裕層の方が中心です。一方で、若い方も多くいらっしゃっていて、デートや記念日に利用してくださるケースが目立ちます。

—そういった幅広い客層を受け入れられる背景には、店内の空間づくりにも工夫があるように感じました。フロアごとに雰囲気がかなり異なりますよね。
(鈴木氏)そうですね。席数は計65席で、フロアごとにコンセプトを変えています。1階は白木の家具と組子風の壁装飾を取り入れた、親しみやすい雰囲気。2階は黒を基調とした大人の上質な空間で、照明の陰影が印象的なモダンなデザインにしています。江戸前寿司を目の前で楽しめるコの字型のカウンターもここにあります。
3階は個室が中心で、会食やお祝いの席にふさわしいプライベートな特別空間です。ビジネスの接待からカップルのデート、記念日のお祝いまで、用途に合わせてフロアを選んでいただける構成になっています。

—出店にあたって、苦労されたことはどのような点でしたか。
(鈴木氏)物件探しが一番大変でしたね。半年ほどかかりました。最初はホーチミン市中心部の一等地のビルの裏手に物件を見つけて、そこで契約しようとしていたんです。ただ、オーナーから「もっと高く貸せる相手が出てくるかもしれないから待ってほしい」と言われてしまいまして。
それで改めて探し直したときにタオディエン(Thao Dien)に行き着きました。家賃が中心部の半分以下で、当時はまだ少し粗削りな雰囲気が残っていて——日本でいうと代官山が開発される前夜みたいな感覚でしたね。欧米系の富裕層も多く暮らしているエリアで、今ではおしゃれなカフェや飲食店が集まる人気スポットになっています。

—本格的な和食というコンセプトをベトナムでそのまま展開されているとのことですが、現地のお客様の嗜好や文化に合わせたローカライズとのバランスについて、どのようにお考えですか。
(鈴木氏)大きく変えるつもりはありません。ただメニューは季節や食材の状況に合わせて変えています。コースの内容も一定ではなくて、かなり流動的に動かしています。今後は1階を居酒屋スタイルに変えて、2階がおまかせ、3階が接待という形に整理していこうと考えています。

—ベトナムの飲食トレンドは変化のスピードが非常に速いと感じています。そのような市場環境の中で、「おまかせ」というスタイルはベトナムのお客様にどのように受け入れられていると感じていらっしゃいますか。
(鈴木氏)ベトナムで流行っている和食店を視察に行ったとき、そこもおまかせスタイルでした。お客様の反応を見ていても、やはりおまかせ形式の方が喜ばれる印象があります。メニューが固定されているより、季節ごとに内容が変わる体験の方が価値として伝わりやすいんだと思います。一方で「急にメニューが変わるのは良くない」という声もあって、そのあたりの一貫性は意識しています。

—鈴木さんは料理人としてのご経験と、経営者としての役割を併せ持っていらっしゃいます。その二つの立場の間で、ベトナムという市場でビジネスを展開するうえで、どのようにバランスを取っていらっしゃるのでしょうか。
(鈴木氏)料理人は突き詰めると「自分が納得できるものを作りたい」という方向に行きがちです。売上より先にこだわりが来てしまう。でも経営者の立場になると、それだけでは成り立たない。まず安定した売上を作って、店舗運営を軌道に乗せることが先。そこから先はクリエイティブな余地が広がっていくと思っています。こだわりがいくら強くても、売上がなければ店は続けられませんから。

—今後の展開として、体験型のコンテンツや新たな事業への展開もお考えとのことでしたが、具体的にどのような構想をお持ちでしょうか。
(鈴木氏)お寿司を握る体験イベントを企画中です。昼間にやってみようかと思っていて、来てくれる方がいるかはまだ分かりませんが、エンターテインメントとしての和食体験というのは可能性があると感じています。
店舗展開については、まずホーチミンの現店舗を安定させることが最優先です。軌道に乗れば、ハノイへの出店も視野に入れています。ウェディング事業への参入も検討していますが、そちらはもう少し先の話です。日本のレストランで働いているベトナム人スタッフをベトナムに向かわせる形で、人材の循環も考えています。

—ベトナムに駐在されている方や、出張でホーチミン市を訪れるビジネスパーソンへ、ぜひメッセージをいただけますでしょうか。
(鈴木氏)接待や宴会での利用をぜひ考えていただきたいです。1階は30人規模の宴会にも対応できますし、3階の個室は接待にも使いやすい空間です。カップルでの記念日から、ビジネスの場まで、シーンに合わせて使い分けていただければと思います。来てくださったお客様には毎回いい評価をいただいています。ぜひ一度足を運んでみてください。
「食べる」を超えた和食——体験消費がベトナム市場を動かす
今回の取材を通じ、「まず売上を安定させ、そこからクリエイティブへ」——鈴木氏のこの言葉が印象に残った。
日本食チェーンの急速な普及が作り上げた「日常食」としての土台の上に、ミシュランという権威軸と「おまかせ」という体験様式が重なり、ベトナム和食市場は着実に厚みを増している。富裕層だけでなく、感度の高い若い世代までをも引き込みながら、和食の裾野は広がり続けている。
寿司を握る体験イベント、フロアごとに異なる空間設計、季節で変わるコース——こうした試みが示すように、和食はいま「食べる」という行為を超え、エンターテインメントとして再定義されつつある。ベトナムの消費者が「何を食べるか」より「どんな時間を過ごすか」を重視するフェーズに入った今、その流れはさらに加速しそうだ。
店舗情報:SHARI SAIGON MODERN JAPANESE CUISINE
予約・お問い合わせ TEL: 028-3622-0409(ベトナム国内)
住所 35 Ngô Quang Huy Street, Thảo Điền Ward, Ho Chi Minh City, Vietnam Google Map
営業時間 ランチ:11:30〜15:00
ディナー:17:00〜22:00 ※年中無休
アクセス 車・タクシー利用の場合、1区から車で約20分。Grabまたはハイヤーサービスでのアクセスも便利です。
メニュー例(アラカルト)
※公式サイトのメニューページから引用した写真です。




