ベトナムのカーボンクレジット市場が、制度・実務の両面で一気に動き出している。2026年1月の政令29/2026/NĐ-CPで国内炭素取引の法的枠組みが整い、同年6月29日にはハノイ証券取引所(HNX)でベトナム炭素取引所が正式に開設された。
農業・林業と連携したネイチャーベースのカーボンクレジット創出・販売事業を展開するGreen Carbon株式会社は、カーボンクレジット市場の黎明期から事業を手がけてきた企業の一社だ。
同社ESG事業部長 兼 広報室長の井家良輔氏に、ベトナムにおけるカーボンクレジット市場・脱炭素市場の成長性、水田脱炭素の実際、そしてJCM(二国間クレジット制度)をめぐる日越交渉の現在地を詳しく伺った。
(お話を伺った方)

カーボンクレジットを生む農業モデルとは?
農家に還元するカーボンクレジット事業
Green Carbon株式会社は、カーボンクレジットの創出・販売を軸に、農業・林業と連携した事業を展開する企業だ。事業は大きく3つの柱で構成されている。中核となるのは、水田・森林保全・バイオ炭・牛のゲップ削減・カーボンファーミング・マングローブ・植林といった多様なプロジェクトを通じてクレジットを創出し、企業に販売する「カーボンクレジット創出販売支援」事業だ。

これに加え、国内外の研究機関・大学と50以上の連携を持ち、CO2吸収能力の高い植物や微生物を共同開発する「生物のデザイン(R&D)」、そして上場企業を中心にサステナビリティ開示を支援する「ESG・排出枠コンサルティング」を展開しており、この3事業が有機的に連動する形で会社全体を支えている。
強みは方法論の開発力にあり、Jクレジット、JCM、ボランタリークレジットのいずれにも対応し、ネイチャーベース領域を横断したスキーム設計ができる点にある。加えて、JAXAや衛星企業と連携したモニタリング体制、植物・微生物研究というディープテック領域、案件のDX一括管理までを内製しており、他社が外部委託しがちな機能を自社で完結できる体制を築いている。

ベトナムを含む海外展開の実績とモデル
海外での事業展開領域はベトナム・フィリピン・タイ・カンボジア・マレーシア・インドネシア・インド・モンゴル・オーストラリア・日本と10カ国以上に及び、水田国であるベトナムやフィリピンでは水田・バイオ炭・マングローブを組み合わせたプロジェクトを、モンゴルでは草原、オーストラリアでは農地貯留というように、各国の地理的特性に合わせてプロジェクト内容を柔軟に変えているのが特徴だ。ベトナムでは15の省・機関とMOUを締結しており、実績面ではJETRO、JICA、東京都などから累計約30億円の補助金・助成金を獲得し、COPをはじめとする国際会議にも継続的に参加してきた。
農業・林業を事業の起点に据える同社のモデルでは、農家・林家が水管理の見直しや植林・保全活動といった削減活動を実施し、そこで生まれた環境価値をクレジットとして企業に販売、その収益の一部を農家・林家に還元する。削減活動の担い手である農家・林家自身に経済的なメリットが還元される設計になっている点が、このモデルの核心だ。創出規模は年間数百万トンレベルに達しており、大規模案件では将来のクレジット創出に対して事前投資を受ける「予約型」モデルも採用している。

なぜベトナムか──水田695万haの魅力
水田695万haとJCM申請という強み
同社が対象国としてベトナムを選定した基準は、水田面積の大きさと、カーボンクレジットを取り巻く市場の進み具合の2点である。ベトナムの総水田面積は約695万ha。日本の約130万haと比べて5〜6倍の規模であり、アジア地域でもトップクラスの水田面積を保持している。米生産国・農業国であり、かつ先進国ではなく発展途上国というポジションにあることも、削減余地すなわちクレジット創出の余地を大きくしている要因だ。
もう一つの要因が競合環境である。東南アジアではカーボンクレジットの「デベロッパー」、つまり創出事業者そのものがまだ少ないという。案件を大規模化するうえで重要になるのは、各国政府・地方政府との連携の強さだ。農地を面で押さえ、行政と制度面で歩調を合わせられるかが、そのままスケールの上限を決める。この点でベトナムはJCM(二国間クレジット制度)の方法論がすでに申請中の段階にあり、フィリピン(承認済み)に次ぐ位置につけている。タイ・カンボジアも申請中である一方、水田面積で上回る中国・インド・バングラデシュはJCM方法論が未定にとどまっており、「面積」と「制度の進捗」の両方が揃う国はまだ限られる。
世界における主要農業国の総水田面積・JCM方法論の現状
| 国名 | JCM方法論 | 総水田面積(ha) |
|---|---|---|
| 中国 | 未定 | 29,000,000 |
| インド | 未定 | 50,000,000 |
| バングラデシュ | 未定 | 11,500,000 |
| タイ | 申請中 | 10,700,000 |
| インドネシア | 未定 | 10,700,000 |
| ベトナム | 申請中 | 6,950,000 |
| フィリピン | 承認済み | 4,600,000 |
| パキスタン | 未定 | 3,800,000 |
| カンボジア | 申請中 | 3,640,000 |
| スリランカ | 未定 | 1,150,000 |
実際の展開規模も急速に拡大している。AWD(間断灌漑)による水田プロジェクトの対象面積は、2025年の55,000haから2026年には191,000haへと3倍以上に伸びる見込みで、フィリピン・カンボジアを含めた3カ国全体で年間440,000tのクレジット創出を計画している。この中でもベトナムが最大の伸び幅を占めている点は、同社が同国を重点地域と位置づけている裏付けといえる。
さらに、ベトナムではカーボンクレジット取引所の試験運用がすでに始まり、2028年末を経て本格始動する計画が示されている。アジアの中でも比較的環境対策が進んでいるこの国でクレジットの創出・販売を行うことで、ベトナム国内での資金循環を生み出せる──同社はそう見立てている。
高品質AWDライスで農業と脱炭素を両立
こうした流れの延長線上にあるのが、ベトナムでの新たな取り組みの一つとして本格始動した「高品質AWDライス」の生産・販売事業だ。メコンデルタ地域のカントー市・アンザン省で約200haを対象に、AWDによる水田メタン排出削減と高品質・低炭素米の栽培を両立させる形で進めており、現地大手米穀企業のAngimex Foodと連携して輸出展開を図っている。農業DXプラットフォーム「Agreen」を通じて営農データや残留農薬管理も行い、ベトナム政府が推進する「100万haプロジェクト」とも連携。将来的には欧州・ニュージーランド市場への輸出を視野に入れており、脱炭素と農業の収益性向上を同時に実現するモデルの横展開を目指している。

水田メタンをAWDで減らす仕組みと課題
メタン発生のメカニズムとAWDによる削減
水田は、温室効果ガスの一種であるメタンの排出源として特定されている。世界のメタンガス排出量の約10%は水田由来とされ、水田から排出されるメタンガスは二酸化炭素の約25〜28倍もの温室効果を持つとされる。水稲栽培は他の畑作と異なり常時水を張って栽培されるのが一般的だが、水を張った状態(水土壌)では土壌の酸化が進みにくく、嫌気性のメタン生成菌の活動が活発化する。この菌が有機物などを分解する過程でメタンが発生する仕組みだ。
この課題に対応するのがAWD(Alternate Wetting and Drying、間断灌漑)である。水田の水管理によって落水と入水を繰り返す手法で、従来のように水位を保ち続けるのではなく、意図的に地表を表出させる期間をつくることで土壌のメタンガス発生を抑制する。フィリピンに本部を置く国際稲研究所(IRRI)が開発した手法で、JCMなどの方法論でも採用されており、日本の「中干し」に相当する。Green Carbonはすでに2023年、ベトナム国立農業大学(VNUA)と連携してAWDの実証実験を実施し、大学圃場において脱炭素効果や水稲そのものへの影響を確認している。

農家が抱える課題と、Green Carbonが担う役割
AWDは手法を持ち込めば済む話ではない。むしろ現場の農家側には、克服すべき課題が二重に横たわっている。ひとつは収入面で、小規模農家が多いうえに農薬規制などの理由で輸出ができず、収入が伸び悩んでいるという構造的な問題だ。もうひとつはノウハウ面で、水管理そのものやクレジット化の手続きに関する知見を農家自身が持ち合わせていないという実務上の壁である。
こうした課題に対し、Green Carbonはプロジェクトの組成からノウハウの提供、モニタリング技術の開発・提供、そしてクレジットの申請・取得までを一貫して担う。井家氏も、資金、人材育成、制度整備といった領域への追加的な投資が引き続き必要だと指摘する。民間事業者側の実務課題も具体的で、プロジェクト処理書類の整備、事業実施状況のモニタリングとデータの透明性確保、そしてクレジット発行までの申請プロセスの整備と運用軸の統一が挙がる。
なかでも大きな課題となるのが方法論の構築そのものだ。データの蓄積と規格化が必須であり、相応の時間を要する。ベトナムの水田で削減が起きていることを、第三者が検証可能な形で立証し続ける仕組み──それを一から組み上げる作業が、クレジット化の前提として横たわっている。

ベトナム炭素市場の制度整備と取引所開設
ベトナム炭素市場、法整備の全体像
ベトナムのカーボンクレジットに関する法制度面も見てみると、制度面の起点は2025年1月24日にさかのぼる。この日、トラン・ホン・ハー副首相が国内炭素市場の設立・発展に関する提案を承認する決定232/QĐ-TTgに署名し、2段階のロードマップが定められた。2025年から2028年末までの「試行段階」で法的枠組みと技術インフラの整備、国内炭素取引所の試験運用を進め、この期間中は企業の参入障壁を下げるため取引手数料を無料とする。そして2029年以降を「本格運用段階」とし、全国規模での正式運用と取引手数料の徴収を開始する計画だ。
2026年1月19日には政令29/2026/NĐ-CPが公布された。同政令は、温室効果ガス排出枠およびカーボンクレジットの登録、国内コードの付与、保管、所有権移転、取引、決済までを包括的に規定する初の法的文書であり、これによりベトナムのカーボンクレジット市場の制度的枠組みが明確化された。続く2026年4月1日には政令112/2026/NĐ-CPが公布され、温室効果ガス排出削減成果およびカーボンクレジットの国際移転に関する規定が整備された。国内市場への参加にとどまらず、国際市場との接続に向けた法的枠組みも前進しつつある。

ハノイ証券取引所でベトナム炭素取引所が正式開設
そして2026年6月29日朝、ベトナム炭素取引所がハノイ証券取引所(HNX)で正式に開設され、初回取引が行われた。気候変動局(農業環境省)によると、2025〜2026年期に火力発電・鉄鋼・セメントの3分野に割り当てられた排出枠は合計5億1,100万トンCO2eにのぼり、Hoa Phat(ベトナム最大級の鉄鋼メーカー)、Formosa(台湾系の製鉄・石油化学グループ)、EVN(ベトナムの国営電力会社)、PV Power(国営石油ガス大手ペトロベトナム傘下の発電会社)、VICEM(ベトナムの国営セメント最大手)など92社がこの排出枠取引の対象となっている。初回取引セッションでは1,210トンCO2eが取引され、価格は1トンあたり13万〜13万6,000ドンで推移した。
カーボンクレジット取引の実態とJCM活用
カーボンクレジットの取引方法には大きく2種類ある。取引所などの市場でシステムが売り注文と買い注文を自動的にマッチングさせる方法と、売り手と買い手が1対1で、あるいは仲介業者(プロバイダーや商社など)を挟んで直接交渉し、合意のうえで売買する「相対取引」だ。井家氏によれば、実態としては相対取引が中心だという。大企業がGreen Carbonのようなデベロッパーに直接コンタクトし、数万トンから数十万トン単位で問い合わせてくるケースが多く、価格は交渉によって決まるものの、市場にはすでに一定の相場観が形成されつつある。
もう一つ押さえておきたいのがJCM(二国間クレジット制度)だ。水田由来メタン削減のJCM方法論は、現状フィリピンでのみ確立しており、ベトナムにはまだ存在しない(2026年7月27日時点)。Green Carbonが最先端で申請を進めている段階だ。フィリピンが先行した背景には、日比間で長年にわたり積み重ねられてきた協議があり、水田の方法論は2025年に採択されている。
JCM化のメリットは、ボランタリークレジットに比べて買い手がつきやすく、価格も安定している点にある。井家氏によれば、国内のJクレジットの価格と比べても価格競争力があるという。背景にあるのが日本のGX-ETSだ。
GX-ETSとは、GXリーグにおける排出権取引制度のことで、企業のCO2排出上限(排出枠)を政府が設定し、排出量がこれを超えた企業は下回る企業の枠を買い取る仕組みを指す。超過分に対しては排出量の10%まで、カーボンクレジット(J-クレジット・JCM)を充当することも認められている。つまり日本企業がクレジットを購入・活用できる制度上の受け皿がJ-クレジットとJCMに限定されているわけで、この構造的な理由から、日本企業からの選好が高くなっているのである。

日越交渉の壁と広がる新たな可能性
井家氏が最大のボトルネックとして挙げるのは、技術でも資金でもなく、日越間のネゴシエーションだ。二重計上を防ぐためのcorresponding adjustment(相当調整)の取り決めが、その交渉の中心にある。さらにベトナム側は、省庁間や地方・省レベルでポジションが変わりやすく、交渉のカウンターパートが安定しにくいという事情も重なっている。
もっとも、前進の兆しもある。ベトナムではMRV(測定・報告・検証)の国内制度が近く整備される見込みで、Green CarbonはこのMRVを土台にAWD方法論のJCM化を進めたい考えだ。井家氏は「日本・ベトナムの政府間交渉がよりアグレッシブに進むことが、デベロッパーの安心感と投資促進につながる」と語る。制度が先か投資が先かという鶏と卵の関係を断ち切るのは、結局のところ政府間の合意形成の速度であろう。
視野の先には、水田に続く領域も見えている。林業、すなわち森林のCO2吸収量に関する分野は、水田と同様にまだ方法論開発の途上にある。フィリピンではマングローブ植林などでJCM方法論化に向けた動きがあり、長期的には農業分野全般で方法論が増えていく見通しだという。メコンデルタや中部沿岸部にマングローブ林を抱えるベトナムを思い浮かべれば、このフロンティアの広がりは決して小さくない。

ベトナム市場とGreen Carbonの展望
ベトナムのカーボンクレジット市場は、政令29号・112号による法制度の整備と、6月29日のHNX炭素取引所開設によって、制度と実務の両輪が動き出す段階に入った。695万haという圧倒的な水田面積、そしてJCM方法論の申請という先行的なポジションを併せ持つベトナムは、Green Carbonにとって今後も最重点地域であり続けるだろう。
同社はすでにメコンデルタでの高品質AWDライス事業を通じて、脱炭素と農家の収益向上を両立させるモデルを実践に移しており、今後はこの取り組みを他の省・地域へと横展開しながら、JCM方法論の確立に向けた申請プロセスをさらに前進させていく構えだ。
あわせて、MRV制度の国内整備を見据え、データの蓄積と検証体制の構築を進めることで、日越間の相当調整をめぐる交渉を後押しする土台づくりにも力を注いでいく方針である。水田で培った知見を林業・マングローブ植林といった新たな領域へ広げていく展望も含め、Green Carbonの動向は、ベトナムにおけるカーボンクレジット市場そのものの成熟度を測る一つの指標として、引き続き注目に値する。

ベトナム経済メディアInfoBank 編集長
三浦 賢弥
KENYA MIURA
筑波大学大学院でのベトナム研究・ホーチミン市師範大学での留学を経て、JETRO(日本貿易振興機構)に入構。
ベトナム進出コンサルティング・市場調査会社に7年間携わり、2026年1月にベトナム経済メディアInfoBankを企画・運営する株式会社InfoBase創業。代表取締役に就任。
